ダライ・ラマ法王猊下のご尊兄、ギャロ・トゥンドゥプ氏(97歳)が2025年2月8日、インド・カリンポンで亡くなった。本号では当会副代表の小林秀英師に『チベット国旗秘話』『ギャロ・トゥンドゥプ氏とCIA』として、二節に分けて氏にまつわる逸話をご紹介いただく。
ギャロ・トゥンドゥプ氏が亡くなって、氏の生前のインタビューがFacebook等で再生されている。非常に貴重な現代史の裏話であるのでご紹介したい。
ダライ・ラマ法王猊下の長兄は、タクツェル・リンポチェという方でアムド(青海省)のクンブン僧院の僧院長をしておられた。中共軍がラサに進駐したのは一九五一年だが、その際にタクツェル・リンポチェはダライ・ラマ法王猊下を説得するという名目で中共軍と共にラサに入り、アムドのチベット人たちが被っている惨状を克明に法王猊下に伝え、直ぐにインドに出国した。

築地本願寺
築地本願寺にいたタクツェル・リンポチェに米国のCIAが接触して来た、とギャロ・トゥンドゥプ氏が生前のインタビューで語っている。タクツェル・リンポチェはCIAの要員を連れてインドにやって来て、ギャロ・トゥンドゥプ氏に紹介した。一九五四年のことだ。ダライ・ラマ法王猊下はまだチベット本土にいて、中共軍との苦しい折衝を続けていた。
CIAの提案というのは、チベット・ゲリラを訓練し中共軍と戦うということだった。ギャロ・トゥンドゥプ氏がゲリラ志望者を募ると、千人の募集枠に数千人の応募があった。ゲリラ志望者たちは米国のコロラド州に送られ、そこで軍事訓練を受け、やがて最新式の武器と通信機、大量の資金を持ってパラシュートで降下し、中共軍との戦いに参加した。
一九五九年三月、ダライ・ラマ法王猊下がラサを脱出しインド国境に向かわれた際にも、米軍の武器と通信機を持ったゲリラが途中から合流した。この時米軍の最新式の武器と通信機を持ったゲリラがいなかったら、法王猊下一行は無事にインドに辿り着けたかどうか分からない。青木文教は、第二次世界大戦後しばらくGHQの民間情報局に籍を置いたことがある。CIAと築地本願寺にいたタクツェル・リンポチェを繋いだのは、青木文教であったのだろうか。CIAの支援を受けたチベット・ゲリラは、ダライ・ラマ法王猊下インド脱出後もチベットで戦っていた。
一九七一年ニクソン米国大統領の特使として、キッシンジャー補佐官が訪中すると、CIAのチベット・ゲリラ支援は取り止めとなった。一九六九年ニクソンが大統領選に出馬する段階で、ロックフェラーがキッシンジャーを補佐官に任命することを条件にし、ニクソンはこれを飲んだ。ニクソンはロックフェラーの支援を受けて大統領選に勝利した。ロックフェラーは中共との経済的な繋がりを欲していた。つまり経済的な利益を最優先する米国の一部勢力が、米国政治の主導権を握ってしまったと解することができる。何よりも金儲けを最優先する勢力は、中国共産党だけでなく米国にも明らかに存在していて、それがチベットやウィグル、南モンゴルの自由獲得闘争の障害となっているのは間違いない。
CIAの軍事支援を失ったチベット・ゲリラは次第に劣勢となり、ネパールのムスタン王国に追い詰められた。中共はネパール政府にも手を回して、ムスタン王国にネパール軍を差し向けさせた。チベット・ゲリラは、中共軍だけでなくネパール軍にも包囲された。ダライ・ラマ法王猊下は特使を派遣して、チベット・ゲリラに抵抗を止めるように説得した。ネパール軍に投降したゲリラたちはネパールの刑務所に入り、降伏を拒んだ人たちは自決して果てた。チベット人の武力抵抗の終焉であった。