善光寺徳行坊住職 若麻績敬史師を悼む
スーパーサンガ副代表 小林秀英
若麻績師は、チベット支援活動の立役者にして最大の貢献者でした。
私が初めて若麻績師とお会いしたのは、2008年4月26日に予定されていた北京オリンピック聖火リレーの出発地を、善光寺が辞退すると報じられたことが機縁でした。善光寺が出発地を辞退するとの報に、私たちチベットを支援する側は喝采を送り、信じられないことが起きたとの感がありました。
一方、善光寺の決断を批判する側は善光寺に脅しをかけ始め、善光寺の板塀に落書きが発見されたとか、火を点けるとの脅しがあったとか、東京で報道を見聞するだけでも、長野市の緊張感がひしひしと伝わって来るようで、居ても立っても居られない気持ちでした。
自分も何かしなければとの思いで、「善光寺に感謝のお参りをする僧侶の集い」を立ち上げ、天台宗の大樹玄承師、曹洞宗の高辻哲洋師、真言宗の井川仁水師の賛同を得て、ネットで4月26日の早朝に善光寺に集まれと声を発しました。
4月25日の晩に長野県庁で記者会見が開かれるとのことで、それに合わせて車で東京を出発、長野県庁に着いたのは記者会見の最中でした。正面真ん中に3人位の善光寺の僧侶が座り、記者席はほとんど満席でした。私は記者席の後ろの方に座っていましたが、入るときに「善光寺に感謝のお参りをする僧侶の集い」のチラシを受付の職員の方に手渡していました。
記者会見も終わろうとした時に、若麻績師が私の手渡したチラシを手にして、善光寺の決断を支持して下さる僧侶が日本中におられます。ここにも善光寺の決断を支持するために駆けつけて下さった方がおられますと、私を紹介してマイクを手渡してくれました。
私は思いのたけをぶっつける積りで、「善光寺の今回の決断は、大英断である。善光寺の決断を支持する僧侶は日本中におります。明日の朝までにぞくそくと、日本中から僧侶が駆けつけて来ます」と話しました。記者会見の様子は、長野県内のテレビ・ニュースで25日の晩、26日の朝と流され、私の師、宮坂宥勝師のご自坊は岡谷ですが、テレビ・ニュースに「秀英さんが出ている。秀英さんが出ている」と暫く話題になったと後に聞きました。
25日夜遅く私の携帯に連絡があり、台湾のタシ・ツェリン氏とその案内人が長野に着いたが、どこのホテルも満杯で泊まるところがないと訴えて来たので、私と井川師が泊まっていた禅寺の部屋が大きくて余裕があったので、そこに来なさいと泊めて上げたのです。翌日タシ・ツェリン氏が聖火を掲げた福原愛ちゃんの前に飛び出して、捕まってしまうとは夢にも思いませんでした。
翌26日早朝6時、善光寺本堂で「犠牲となったチベット人および漢人の追悼法要」が開かれるというので、6時前に本堂前に集合しました。私たちの呼び掛けに応えて全国から駆け付けて下さった僧侶の方々はおよそ30人位だったと思います。その他に真言宗智山派の青年僧の方々が約10人位、本堂に入堂されました。
善光寺の僧侶の列席は数名であったと思います。全国から駆け付けた一般のチベットの支援者は、本堂を埋め尽くすほどで数百人はいたと思います。それに対して法要に列席された善光寺の僧侶の少なさに微妙な違和感を感じたのですが、この時はまだ状況が十分に呑み込めない状態でした。
26日早朝の追悼法要に参加した後、タシ・ツェリン氏とは善光寺の山門のところで別れました。長野の街はどこも五星紅旗の赤い旗で覆われていました。そこに追悼法要を終えたばかりのチベットの支援者が、チベット国旗を掲げて数十人単位で流れ込んで行くのです。私は在日チベット人グループと一緒でした。
長野の街を、聖火リレーを追っかけて、街中を覆った赤い旗と対峙しながら、「フリーチベット」と叫ぶのです。中国大使館によって動員された中国の留学生たちは、我々が持つチベット国旗の数倍はあろうかと思う巨大な赤い旗で、目星をつけたチベット支援者を包み込み、外からは見えないようにして、殴る蹴るの暴力を振るうのです。私も何度が赤い旗に包まれたことがありましたが、大したケガはせずに済みました。
終着点の長野市民球場に着くと、警官隊に区分されて、中国側とチベット支援側に分かれて、暫くシュプレヒコールを繰り返していました。この時私の携帯に連絡が入り、タシ・ツェリン氏が逮捕されたことを知りました。タシ・ツェリン氏は20数日間拘束された後に、罰金刑を受けて釈放され台湾に帰りましたが、ネットで支援を訴えたお陰で日本全国から60万円の浄財が集まり、それで罰金を納め、台湾へ帰るチケットも買うこともできました。
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4月26日早朝の追悼法要に善光寺山内の僧侶の列席が少なかった理由については、後々に分かったことですが、若麻績師のご苦労を偲ぶ事実として語っておいた方が良いだろうと思います。当時の善光寺の執行役員は数の上では少数なのですが、職務上の権限で聖火リレーの出発地辞退の決定を下すことができたのです。翌年は善光寺の御開帳を控え、そんなことをしたら人が来なくなるではないかという意見が、善光寺の山内では多数を占めていました。その多数派の意見を抑え、また歴史ある善光寺の本堂を燃やされたらどうするのかという恐怖に打ち勝って、仏教徒が虐められているのに黙っていて良いのかという筋を通して、頑張って下さったのが若麻績師でした。それを思うと、今でも涙が流れて来ます。若麻績師を中心とする当時の善光寺執行役員を突き動かしたのは、聖火リレーの直前に関西テレビの青山繫晴氏の番組で、スーパーサンガ前代表の大樹玄承師がチベットを救おうと訴えたことを、善光寺執行役員さんたちが見ていてこのまま善光寺が聖火リレーの出発地になっても良いのかとの思いに至ったこともお伝えして置きたいと思います。
天網恢恢疎にして漏らさずと言います。中国共産党といえども天の網から逃れることはできないのです。11月27日若麻績師の葬儀に参列した後、斎場から歩いて善光寺の裏門から境内に入ろうとしたら、数人の参拝客の方々が上を見上げているので、私と妻、それからダライ・ラマ法王事務所の事務局長が上を見上げたら、不可思議な丸い雲が善光寺の上に浮かんでおりました。私は理由もなく、若麻績師の丸い雲だと感じて、来世はもっと人助けをされるのであろうとありがたい気持ちになりました。天網恢恢疎にして漏らさず。天網恢恢疎にして漏らさず。
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去る2023年11月21日、当会幹事・若麻績敬史師が遷化されました。ご生前の多大なるご尽力に感謝すると共に、心より哀悼の意を捧げ、ご冥福をお祈り申し上げます。 スーパーサンガ編集部