ニチャン・リンポチェの経歴

ニチャン・リンポチェ

一九三五年にチベットとネパール国境のキドゥン渓谷に生まれる。七歳でゲールク派の三大僧院の一つであるデプン寺に入門。八歳の時、偉大なる尼僧・シュクセプ・ジェツン・リンポチェに師事し、顕密両教の手ほどきを受ける。ミンドゥルリン寺でも古訳ニンマ仏教の密教の埋蔵経教法全集の伝授、曼荼羅の作壇方法、占星術を学び、十五歳から、ディグン・カギュ派のニマチャンラ僧院大学に入門。そこで、インドの大学聖の著作「十三部の律蔵と論書」の注釈を学ぶ。そして、一九五三年、弱冠十八歳でこの僧院大学の教師となる。
一九五九年人民解放軍のチベット侵略により、インドに亡命する。ダライ・ラマ法王庁により、現ウッタラーカンド州のムスーリーにあるチベット高等学校の教頭、仏教教育の主任に任じられる。その後、ヴァラナシ・サンクリット大学のチベットインド学研究所(現サルナート仏教大学)の助教授を歴任。この間、現在も活躍する多くの優秀な学僧の育成に貢献。
一九七四年三十九歳の時、ダライ・ラマ法王庁の要請で、高野山大学の専任講師として来日。京都大学、東北大学、岩手大学で、仏教講座を持つ。一九八〇年東京に転居。東洋文庫の研究員、平河出版社の顧問を務める。仏教講座を開講し、宗派に捉われず、仏教の基礎から密教まで伝授を続ける。修行に興味ある生徒たちの強い要請に応え、ロンチェンニンティクの加行を国内外で伝授する。
二〇二〇年ゾンサル・キェンツェ・リンポチェと共にブッダパーダ研究所を創設。チベット仏教で重要な役割を果たしてきた三人の学匠成就者、ロンチェンパ、ジグメリンパ、テンポ・テルトン・シェラップ・ウーセルの教えの継承、ヒマラヤ地域やインドの人たちが、仏教文化を学び、次世代へ仏教の法燈を繋ぐこと目的としている。特に一般の在家の人たちが、仏教と古のインドの智慧を学ぶ場として創設した。日本的な無駄のない、洗練されたシンプルな建築群は、カリンポンの豊かな自然と調和し、素晴らしい学びの場として高く評価されている。

晩年と法要

リンポチェは、極めてご健康で精力的に日本国内、世界各国で法要、説法をされていましたが、二〇一一年八月オレゴン州で心筋梗塞を発症。優秀な心臓外科医に恵まれ、バイパス手術は無事成功し、経過は良好でしたが、二〇一九年に心不全を発症しました。
二〇二〇年三月のブッダパーダの創立記念式典後、コロナ感染をさけ、東京には戻らず、一年間熊本に滞在。その後、北九州の八幡に移転。医師ご夫妻による手厚いケアと、美しく静謐な自然の中で、ご自分の著作、修行に励まれました。
本来リンポチェは対面以外での講義や伝授にはとても否定的でしたが、コロナ終息の目処が立たない中、オンラインで「入菩薩行論」の伝授を開講しました。リンポチェは常に教えの中で、帰依と発菩提心の重要性を説かれてきました。入菩薩行論は発菩提心について詳細に解説してあり、このテキストを最重要なテキストとして選ばれました。
心不全は完治不可能で、徐々に悪化してゆく病気です。二〇二二年、二〇二三年と二度ほど再発し、入退院を繰り返しました。その後、リンポチェは深い思索の中で、山間に籠って修行をする願いが強くなり、岐阜県の養老に転居されました。
その後、避寒で熊本滞在中に、心不全を発症、二ヶ月半闘病されました。その間、ゾンサル・キェンツェ・リンポチェが二度も病院に見舞われ、将来のブッダパーダ研究所のことなどを相談されました。再度説法を再開することを強く望んでおられましたが、叶わず二月十四日早朝、熊本の済生会病院で示寂されました。

荼毘法要の様子

長崎県諫早市の天祐寺で法要が修法されました、高野山大学の元学長をはじめ百名を優に超える方達がお参りくださいました。
三月一日に、ブッダパーダ研究所にご法体を移送。サキャ派大座主のギャナ・ヴァジュラ・リンポチェはじめ、近郊の高僧、僧侶、行者、多くの人たちがお参りしてくださいました。そして五月三十一日、ゾンサル・キェンツェ・リンポチェが導師となり荼毘に付されました。日本からも四十人以上の方が参加くださいました。
リンポチェのご舎利は、伝統に則り、ツァツァ(小さな土の仏塔)の中に奉納されています。将来、日本に仏塔を建立しそこにお祀りする予定です。
スーパーサンガ、一食運動の皆様方にはリンポチェのお考えにご賛同いただき、チョルテンゴンパへのご供養等、大変お世話になりました。貴会の益々の繁栄を心よりお祈りしています。
(井之元 秀昭)