チベットハウス(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所)のご許可を得て、本年11月22日、福岡にて開催された追悼法要の記事を転載いたします。
昨日東京から福岡に移動された法王は、今朝、博多区の東長寺に車で向かわれた。道路は雨に濡れ、冷たい風が吹いていた。東長寺は、真言密教の教えを広めた弘法大師空海によって9世紀に建立された寺である。
法王は東長寺のご住職とともに堂内に着座されると、『般若心経』と『阿弥陀仏の浄土に生まれ変わるための祈願文」をチベット人の僧侶たちとともにチベット語で唱えられ、それに続いて日本の僧侶たちが日本語で『般若心経』と阿弥陀仏への帰依文を唱えた。
追悼法要を終えられると、法王はおよそ1,700人の聴衆に向けて次のように述べられた。
「本日は、広く知られたこの東長寺において、熊本地震をはじめ、地震や豪雨により家を失われた方々、そして亡くなられた方々のために、『般若心経』と『阿弥陀仏の浄土に生まれ変わるための祈願文』をお唱えしました」
「私は7歳の時、沙弥戒を授かった際に『阿弥陀仏の浄土に生まれ変わるための祈願文』を暗唱せねばなりませんでした。大変緊張しましたが、何とか最後まで唱えた時のことを、これを唱えるたびに思い出します」
「より清らかな世界に生まれ変わるためには、よい行いをしてよい業(カルマ)を作らねばなりません。正しい資格を備えた師のもとで多くの教えを聞き、それについて考え、瞑想を通して教えを心になじまるという聞・思・修の段階を踏むことにより、智慧を高めていくことが必要とされます。この祈願文は、卓越した学者であり修行者であったジェ・ツォンカパが書かれたものです。同じくジェ・ツォンカパの手による『了義未了義善説心髄』には、仏陀が説かれた教えをお言葉通りに受け取ってよいもの(了義の経典)と解釈を必要とするもの(未了義の経典)に分別する方法が説明されており、このテキストはインドの学匠ティルパティとゲシェ・イェシ・タプケによってヒンディー語に翻訳されています。ある時私は学匠ティルパティに、ジェ・ツォンカパはナーランダー僧院の成就者たちに匹敵するかどうかと尋ねたことがありますが、その時彼は、同等どころかきわめて優れた方であると答えてくれました」
「『般若心経』はきわめて深遠な教えです。釈尊は悟りを開かれた後、最初に『四聖諦』(四つの聖なる真理)の教えを説かれました。その第一の真理が、苦しみが存在するという真理(苦諦)であり、第二の真理として、苦しみは原因や条件なしには生じないものであることを説かれました。つまり、他者を害し、不幸にするならば、その結果として自分が苦しみを味わうことになるのです。私たちは無知であるがゆえに、そして心がかき乱されているがゆえに、悪い行ないをしてしまいます。自らの誤ったものの見かたこそ、煩悩の源であり、私たちの破壊的な感情が悪しき行為を生み、それが苦しみを生み出してしまうのです」
「『般若心経』には、『色即是空 空即是色 色不異空 空不異色』(色は空であり、空もまた色である。色は空と異ならず、空もまた色と異なるものではない)と述べられているように、釈尊は無知や間違った見解を克服するために空性について説かれました。他者の苦しみが和らぎ、幸福がもたらされることを祈って『般若心経』を唱えるならば、きっと他者のために役立つはずです」
続いて、法王は聴衆に向かって質問がある人は挙手するよう呼びかけられた。
質問者の一人が、中国がチベットを侵攻した当時の状況をお訊ねすると、法王は、次のように述べられた。
「1950年にはチベット人も反撃していましたが、1951年にチベットの平和的解放について17か条協定が結ばれました。中国とチベットは、時に友好的、時に対立し、という関係でしたが、チベット人は不屈の精神を維持し続けてきました」
次に、苦しみをいかにして終わらせることができるか、という質問に対し、法王は次のように答えられた。
「釈尊は悟りに至られた時、次のように述べられました」
甚深にして寂静、戯論を離れ、無為にして光り輝く
甘露の如き法(ダルマ)を私は見いだした
しかし、この法を説いても誰も理解することはできないだろうから
森に留まり、沈黙を守ろう
最初に述べられている ‟甚深にして寂静” とは、初転法輪の核心である滅諦に関連させて解釈することができます。 ‟戯論を離れ” とはその後の第二転法輪において説かれた空に言及されており、‟無為にして光輝く” とは第三転法輪で説かれた無為法(因と条件によって作り出されたのではないもの)である ‟原初からの光明の心” に関連しています。初転法輪が基盤となり、第二転法輪では一切の現象は戯論を離れていることが示され、第三転法輪では、光り輝く光明の心、すなわち仏性が明らかにされたのです」
「釈尊は初転法輪において四聖諦の教えを説かれましたが、四聖諦の本質、機能、結果について明らかにするために、四聖諦を繰り返し三回ずつ説かれています。そして苦しみは無知に根差していること、無知は正しい見解によって克服できることを明確にされました。さらに、仏教徒が目的とする苦しみの止滅の境地に至るため、釈尊は“苦しみの止滅の境地に至る修行道が存在する”という第三の真理(道諦)を示されて、一切の現象には固有の実体が存在するという捉われ、つまり無知を晴らす対策となる空の智慧を理解するための修行道が存在することを説かれたのです」
「初転法輪で説かれた四聖諦の本質、機能、結果についての解説は、釈尊が説かれた教えの枠組みを総括的に示すものであり、第二法輪では、苦しみの止滅の境地(滅諦)についてさらに深遠なる解説をされています。そして釈尊は、第二法輪における明らかな教えとして空性について説かれており、空の教えには、のちにナーガールジュナが詳しい解説をされています。一方で、第二法輪で説かれた隠された教えには、マイトレーヤの『現観荘厳論』に詳しく述べられている通り、修行の道をどのように歩むべきかが示されています」
「さらに、第三法輪では、‘原初から存在する光り輝く汚れなき心’の存在が示されており、その教えは『解深密経』の中にまとめられています。そして、「固有の実体を持つ現象は何ひとつ存在しない」という第二法輪で説かれた空の教えを受け入れることができず、虚無論に陥ってしまう可能性のある弟子たちに対しては、一切の現象を遍計所執性(実体があるかのように妄分別された現象のありよう)、依他起性(他のものに依存して生起する現象のありよう)、円成実性(円満なものとして達成された現象のありよう)という三つのカテゴリーに分類して、それぞれの現象には自性による成立がないということを説かれているのです。さらに、『如来蔵経』には仏性について説明されており、対象物の空と、仏性としての主体者の心の空に言及されています」
法王は、すべての伝統宗教が愛と慈悲を説いており、それは人間にとって本質的に役立つものであることを強調すると、いつも引用されている次の偈を唱えられた。
仏陀たちは有情がなした不徳を水で洗い流すことはできない
その手で有情の苦しみを取り除くこともできない
自ら得た理解を他者に与えることもできない
ただ、真如という真理を示すことによって有情を救済されている
つまり、自らの努力によって、自分の心と感情をよりよく変容させることが鍵となるのである。
そして法王は、祈りの力について、「他者のために祈ることは、よき業を発動させるための条件となり、たとえ重い罪を犯した人であっても、来世における不幸を埋め合わせる種となります」と述べられた。
また、「再びこの世に生を受けたいですか?」との質問に対し、法王は、ナーガールジュナ(龍樹)の『宝行王正論』の偈が法王のお気持ちそのものであるとして引用され、これを毎日唱えておられることを説明された。
地、水、火、風、薬草
森の樹木のように
常にすべての有情が
望み通りに妨げなく〔私を〕用いることができますように(5章83偈)
一切有情を〔自分の〕命のように慈しみ
自分よりも彼らのことをより強く慈しむことができますように
彼らの罪は私に実り
私の徳はすべて彼らに実りますように(84偈)
たとえわずかでも
解脱していない有情がいる限り
無上の悟りを得たとしても
彼らのために〔輪廻に〕とどまることができますように(85偈)
最後に日本人への助言として、法王は次のように述べられた。
「物質的な発展だけに目を向けるのではなく、心や感情のはたらきにも目を向けることが大切です。身体の衛生に気をつけることによって健康を保てるように、感情の衛生に気をつけることによって健全な心を保つことができるのです。それには破壊的な感情(煩悩)にいかにして対処すべきかを学ぶことが役に立ちます」
「仏陀に帰依する者ならば、21世紀の仏教徒にならねばなりません。ヒマラヤ地方の人々は、寺や僧院を学習センターとして活用することを決意し、だれもが仏教を学び、教えの意味を話し合える場にしようと努力しています。『般若心経』を唱えるにしても、その意味を理解して唱えるならば、はるかによい効果が得られるでしょう」
明日、法王は日本を発たれ、シンガポールを経由してインドに戻られる。