去る10月9日午後3時より、横浜観音寺におきまして、当会主催の勉強会「第一回・寺子屋スーパーサンガ~チベット問題を学ぶ~」が開催されました。
講師には、当会顧問であり、チベット問題について多方面からの検証を続ける田崎國彦先生をお迎えし、一般参加者4名、当会会員9名、合計13名の参加をいただきました。先生には、「チベット問題の淵源~なぜチベットは国家承認されなかったのか?~」と題して、1時間半にわたって大変熱のこもったお話をしていただきました。
先生のお話に続いて、質疑応答から始まり、参加者の自由な意見交換、議論がなされました。参加者からは、チベット問題は国際的なあらゆる問題の入り口となりえるテーマであること、これまでのチベット支援活動の中で気がついたこと、そしてチベット問題に関わる上では客観的事実の適切な読解と、それを他者に適切に伝達するコミュニケーション力がとても重要だと感じた等の感想が語られました。終了予定時刻を過ぎても意見交換は続き、大変活発な集いになりました。
当勉強会では今後も、一方的な講演会の形式ではなく、講師と参加者とが意見や考えを交し合う双方向型の勉強会を目指し、参加者が議論に参加しながら理解を深めていく勉強会を企画していきます。皆様のご参加を心よりお待ちしております。
次回、第二回目「チベット問題発生期」は1月末日開催予定。第三回目「チベット問題拡大・深刻期」は3月を予定しています。詳しくは追って情報を掲載いたします。
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「チベット問題の淵源──なぜチベットは国家承認されなかったのか?」
◀スーパーサンガ顧問・田崎國彦先生
1913年2月、ダライラマ十三世は、一連の独立国樹立運動を通して、1910年に軍事侵攻し支配していた中国(清朝・中華民国軍など)をチベット領外に追放した後、インド亡命よりラサに帰還し、いわゆる独立国宣言と五箇条の新政策を内容とする『布告』を全蔵(チベット)に向けて公布して独立国を樹立した。アジア世界は既に、西洋の衝撃(ウエスタン・インパクト)を通して、従来の伝統的国際関係(チベット仏教文化圏のmchod yon チューユン体制と清朝統治体制が並存する多民族共同の世界)の時代から〈国際法(万国公法)〉を紐帯として国民国家がつくる新たな国際関係(条約体制)の時代へと大転換し変貌をとげていく〈近代化〉の流れの中にあった。こうした中で、清末民初期にはチベットの地位を巡る〈国際法にもとづく三つの言説〉が存在し、この三言説は、チベット問題の〈淵源期(チベットが条約体制に入れられる英清間の芝罘条約より1950~1951一年の中華人民共和国によるチベット軍事侵攻と支配まで)〉を貫いて主張され、蔵には自己認識となり、中・英には対チベット政策の基礎となっていく。
「寺小屋スーパーサンガ(全三回)」の第一回は、拙稿「チベットの地位をめぐる三つの言説の実態と形式」(『東洋学研究』東洋大学東洋学研究所、第四十七号、2010年)」を承けて、下記の三言説が出会う1913~4年の〈シムラ会議〉を中心に、三言説を「英国のチベット緩衝地帯観(原理的に非武装の仏教国チベットを英領インド、南進のロシア、弱体化した中国というアジア三大国の〈緩衝地帯(buffer area)〉と位置づける見方)」の観点から捉え直すことを課題とする。三言説とは、①チベットの主張「チベットは自由な独立国である」、②中国(清朝と中華民国)の主張「チベットは中国の主権下にある(中国のチベットに対する〈主権〉で、チベットを属国ではなく属地とする)」、③英国(英領インドも含む)の主張「チベットは中国の宗主権下にある(中国のチベットに対する〈宗主権〉とチベットの自治)」である。
英国は、中蔵の主張②も主張③も承認せず、自らチベットを植民地化もしなかった。言説③は、現実にはチベットを緩衝地帯として機能し、最も具体的には〈英露協商のチベットに関する協約〉と、英蔵中対等のシムラ会議を経た英蔵間締結の〈シムラ条約〉に明文化され、インドを離れるまで主張されてチベットを拘束し続ける。両条約は、緩衝地帯の観点からは、英国がチベットを、前者はロシアとの間の緩衝国として、後者は英露協商を遵守しつつロシアを念頭に置いて、英領インドと中国の間の緩衝国として位置づけるものである。シムラ条約の、例えば第二条は、民国・英国両政府はチベットを中国の宗主権下にあるとする。
中国は、同条約に最終的に正式調印しなかったために、正式調印するまで宗主権といった同条約規定の特権を享受できないなどとする「英蔵共同宣言」が出された。この宣言はチベットを再び独立国の地位に戻したが、英国の言説③はチベットをしばり続ける。以後、チベットは自ら内政・外交を行うが、英国などより国家承認をえられずに、法理上(de jure)はあいまいな〈事実上の独立国(de facto independence)〉であった。言い換えれば、「中国の宗主権下にある自治国としてのチベット」であり、緩衝国であり続ける。主張③は、チベットの植民地化も国家承認もせず、またチベットを中国貿易の裏口としつつ中国との利益関係をも壊したくない英国が、英領インド保全と自国の利益のために立てた言説であった。
付言すれば、さらに中露において共産主義が権力を握っていく中、チベットは端的には共産主義に対する「アジアでの障壁機能」も担わされる。英国はチベットの支援者でもあったが、英国の対チベット緩衝国策は、チベットが1950年の中華人民共和国によるチベット軍事侵攻までに完全独立を実現できず、中国の主権下に組み込まれる最大要因であったと言わざるを得ない。ここにチベット問題の淵源がある。
〔「日本宗教学会(第69回学術大会、2010年9月5日、東洋大学)」において発表した要旨より〕