スーパーサンガ会報誌、平成二十六(2014)年冬号より、チベット問題を考える会・代表の小林秀英氏のコラムをご紹介いたします。

ダライ・ラマ十三世の遺言

ダライ・ラマ十三世

◀ダライ・ラマ十三世

 現在世界中で八面六臂の活躍をしておられるダライ・ラマ法王が、十四世であることはよく知られています。いつも笑顔を絶やさず、チベット人のみならず世界中の人々から敬愛されている現法王の前世のご人格、それがダライ・ラマ十三世です。写真を拝見すると、カイゼル髭を生やし眼光鋭く、少し厳しさを感じさせるそんな風貌であられたようです。

 ダライ・ラマ十三世は一八七六年のお生まれですから、日本の元号では明治九年ということになります。日本では文明開化の波が庶民の暮らしにも影響を及ぼし始めた時期と言えるのでしょうか。鎖国して一国平和主義に閉じこもっていた日本に開国を迫ったのは、一八五三年のペリー来航でしたが、同じように鎖国して閉じこもっていたチベットに開国を迫ったのは、一九〇三年の英国ヤング・ハズバンドのチベット侵攻でした。
 日本の場合には、江戸城と目と鼻の先の江戸湾深くまで黒船四隻に侵入され、降伏する時に掲げるようにと白旗を贈られても、江戸幕府は無抵抗を貫いた平和国家だったのですが、チベットはインドとの国境でも武力抵抗し、さらに首都ラサでも戦闘した末に降伏しました。チベットは日本よりも遥かに戦闘的な国家だったのでしょう。その結果、英蔵ラサ条約が交わされ、チベットは五十万ポンドの賠償金を払い、貿易都市二カ所を開き、関税を全廃されて開国しました。

 日本の場合には関税の自主権が無く、日本は欧米との対等の条約を締結すべく、不平等条約の改正に明治国家を挙げて取り組むのですが、英国に武力抵抗を試みたチベットの場合には、関税の自主権どころか関税を全廃させられたのです。国を開き、いくら諸外国と交易をしても、チベット政府には一切税収がなかったという事です。またチベット政府はこの賠償金五十万ポンドが払えなくで、清国政府に出してもらいました。チベット政府にとってみれば、清国皇帝は檀家であり、僧伽を経済的に支えるのは檀家の役割というのが、チベット政府の心積りだったのでしょうが、後にチベットの独立性が疑われる一因となってしまいました。近代国民国家の出現に、中世チベットはまだ対応できなかったというべきでしょうか。

 しかし元を質せば、世界中で賠償金目当ての侵略戦争を繰り返してきた、浅ましき大英帝国が世界中に残した災難の一つであったと言ってよいのです。インド北東部に、現在シッキムという地域が存在しています。かつてヒマラヤに抱かれた小国でしたが、七つの海を支配した大英帝国は、この小国に攻め込み降伏したシッキムに賠償金を要求しました。賠償金を払えなかったシッキムは、ダージリン地区を割譲して大英帝国の要求に応えたのです。チベットには、賠償金を肩替わりしてくれた大檀家・清国皇帝がおり、日本の場合にも幕末の馬関戦争で敗れた長州藩に代わって、江戸幕府が賠償金の肩代わりをしたのですが、シッキムには江戸幕府も清国皇帝も無かったので、ダージリン地区を割譲したということです。しかしこれは、ヤクザが小市民に因縁をつけて、金を巻き上げるのと大差ない、破廉恥な行為だったと言えるのではないでしょうか。

 ちなみに日本に因縁をつけたペリー提督が、旗艦に掲げていた星条旗が第二次世界大戦終了時に日本が降伏文書に署名する際、ミズリー号上に掲げられていたことも付け加えておきましょう。このときペリー提督が江戸幕府に贈った白旗を日本政府が掲げていれば、歴史的なつじつまがあったのですが、江戸幕府が明治政府にその白旗を引き継いだとは思えません。しかし英国同様に帝国主義国家であった米国は、ペリー提督の星条旗を、言い換えれば日本を降伏させる意思を、引き継いでいたと考えるべきなのかも知れません。

 またペリー提督の黒船艦隊の一隻サラトガ号が、下田に寄港する前に沖縄・石垣島で起こした石垣島事件も、記憶に留めなければならないでしょう。一八五二年、福建省から米国に向かっていた奴隷船中で、中国人苦力たちが暴動を起こし船長らを殺害して、船は石垣島に漂着しました。苦力たち三百八十人が石垣島に逃げ込みました。島人たちは、海岸に小屋を建てて中国人たちを保護していました。しかし英国軍艦とペリー艦隊の一隻サラトガ号がやって来て、この小屋に砲撃を加え、さらに海兵隊を上陸させて島内を捜索し、百名余りを殺害したそうです。石垣島には、殺害された百二十八名の苦力を祀る唐人墓が現在でも護られています。この事件もペリー艦隊の性格を考察する上で、知っておかなければならないことだと思います。

 チベットの話題に戻りますと、チベットは日本に遅れること五十年で世界史に登場しました。このときダライ・ラマ十三世は、二十七歳の若き英明な君主でした。そして世界史の流れの中で、似たような境遇に置かれた日本と、最も深い関係を結ばれる道を選択されました。ヤング・ハズバンドにラサを追われた十三世は、モンゴルに脱出し、北京に出られたときには日本公使館に滞在され、日本側の手厚いもてなしに好印象を抱かれたと伝えられています。新興国日本に対する好印象は、十三世に同行していた側近の方々、つまりチベット政府の中枢の方々も共有していたと考えられます。この側近の方々の中に、当時はまだ十三世の従者をしていたツァロンも入っていました。

 一九〇五年、日本が日露戦争に勝利すると、英国はその余勢を駆って一九〇六年に、英清条約を締結して英蔵ラサ条約を清国に認めさせ、さらに一九〇七年には英露条約を締結してチベットに対するロシアの影響力を排除して、チベットに対する覇権を確立しました。しかし英露条約の中で、英国がチベットに対する清国の宗主権を認めるという後々の災いの種を仕掛けていたことも、記憶に留めなければなりません。翌一九〇八年には英国は清国との間で、チベット通商規定を交わし、交易市場開設の権利とインドに通じる電信線の保護の権利を清国に譲渡しました。譲渡というからには、対価を貰ったのでしょう。何万ポンドで売り払ったのかは分かりませんが、対価をもらっていたと考えるべきです。その結果、清国がチベットに武力介入する口実を与えてしまいました。金銭目当ての浅ましき帝国主義国家の英国が、チベットでの覇権を確立したことで、チベットの苦難がいや増したのです。日英同盟を結んでいた日本が、ロシアの勢力を抑えて、図らずもそれに加担をするような役を果たしてしまったのは、皮肉なことと言わざるを得ません。

 一九〇九年に十三世がラサに帰還すると、一九一〇年にはチベット通商規定を口実にして清軍が侵入してきました。清軍の司令官は、「虐殺者・趙」とあだ名された人間で、敵対する者の首を切り落とすことで知られていました。彼が首をはねた人間の数は、十万人以上にのぼると言われています。「この不幸は英国によってもたらされたものだから、英国の地で解決すべきである」とのネーチュン神の託宣で、十三世はインドに脱出することになりました。虐殺者・趙は、「十三世の首を持ってくれば、莫大な褒章を与える」と部下を叱咤し追撃部隊を派遣しました。この時、ラサ近郊のチャクサムの渡しで、追ってくる清軍の部隊を僅かな手勢でくい止めて、十三世がインドに脱出する時間を稼いだのが、前述したツァロンという従者でした。

 後に彼はインドのベナレスに滞在中に、西本願寺から派遣された青木文教と同じ部屋で起居し親交を深めました。そこにはおそらく、信頼厚い従者と好意を抱いていた日本の使者との関係を深めておきたいという、十三世の計らいがあったのでしょう。やがてツァロンは十三世に先立ってチベットに帰り、チベット軍を率いて清軍を撃ち破り、十三世帰還のお膳立てをしました。

 十三世一行と同行してチベットに入りたいという、青木文教と多田等観の願いは、英国政府によって阻止され、二人は密かに単身ヒマラヤを越えてチベットに入ります。多田等観はセラ寺に入って十年間の学問と修行を続け、ゲシェ(仏教博士)の称号を得ます。青木文教は、チベット軍司令官となったツァロンの邸宅からポタラ宮殿に通い、チベット政府の顧問格として活躍します。そのときにツァロンと一緒に作ったのが、「雪山獅子」と通称される現在のチベット国旗です。その経緯は、青木文教の自伝「西蔵遊記」に詳しく書かれています。

 一九一六年青木文教は帰還の命令を受けチベットを離れましたが、多田等観は一九二三年までチベット滞在を続けました。滞在中に第一次世界大戦が起こり、インドがヨーロッパの戦線に兵士を送ってくれたら、勝利の暁には独立を与えると英国は約束し、インド兵六十万が送られました。しかし戦争に勝ってしまったら、英国は約束を反故にしてインドの独立を認めず、インド兵の銃を取り上げてしまいました。廃銃の処理に困った英国は、チベットに只で銃を提供する旨の打診がありました。このときセラ寺にいた多田等観に諮問があり、多田等観は只でもらうのはよくないから、銃一丁につき銃弾何百かを付けて買い取るようにと答えたそうです。チベット政府は多田等観の進言を入れて、インドの廃銃を買い取ったそうです。インド人が騙されたこんな逸話からも、平気で嘘をつく大英帝国の歴史が垣間見えます。

 多田等観は、帰朝後請われて満州の関東軍のラマ教対策顧問に就任し、蒋介石政権の下で様々な圧力に喘いでいたチベット仏教徒を保護し、十三世から感謝状も貰っています。日本陸軍が十年間もチベットで修行し、チベット僧といってもよいくらいの多田等観に注目し、招請して顧問として迎え入れるなど、戦後日本人の想像も及ばないことでしょうが、これが史実なのです。
 一九三三年、ダライ・ラマ十三世は崩御されましたが、その前年の一九三二年八月、遺言をチベット国民に向けて発表されました。それをジョン・アベドン氏の「雪の国からの亡命」から引用します。

 「ここチベットの中心で、この国の宗教が、この国の政治が、内から外から脅威にさらされるであろう。我らが我ら自身の手によって、この国を守らんと決意せよ。さもなくば、父とその息子、すなわちダライ・ラマとパンチェン・ラマ、さらには信仰心篤く尊敬をかちえた者たち、すなわちこの国の宗教を支える高僧、皆たちどころに消え失せ、名もなき者と化すであろう。僧侶は命を奪われ、僧院はことごとく破壊されるであろう。法の掟は、その威力を失うであろう。土地も財産も、政府官吏に属するものすべて没収されるであろう。官吏たちは自らの敵に奉仕する運命、もしくは乞食のごとく国をさまよう運命を余儀なくされるであろう。生きとし生けるもの皆底なしの苦海に沈む。生きとし生けるもの皆渦巻く恐怖の海に沈む。そして苦しみの中いくつもの昼が、いくつもの夜が、その重い影をひきずるがごとく過ぎてゆくであろう」

 思えば、十三世ご自身も英国の侵略を経験され、また清軍からは首まで狙われるという苛酷な思いもされ、血のにじむような思いでチベット国民に最期の呼び掛けをされたのでしょう。しかし結果は心配した通りの最悪の事態に陥ってしまいました。「我らが我ら自身の手によって、この国を守らんと決意せよ。さもなくば……」と言っておられるのですから、十三世が求めた「決意」を、チベット国民が実現できなかったということなのでしょう。
 十三世の遺言を取り上げてみて気がついたことは、戦後日本人が大きな過ちを犯しているということです。それは靖国神社を目の敵にすることが、平和の道であるという、とんでもない思い込みをしている人たちがいることです。靖国神社に祀られている英霊たちは、十三世の遺言に云う「この国を守らんと決意」し、実践した方々であって、尊敬し感謝しこそすれ、決して非難したり無視したりすべきものではないということです。