西蔵経宝篋印塔(長野市)

長野市の善光寺の背後にそびえる大峰山の中腹、花岡平に「西蔵経宝篋印塔」があります。傍らの石碑には塔の由緒が次のように刻まれています。

「昭和37年8月チベットの尊者3名と多田等観師が善光寺に参籠し千曲川の浄石に世界平和祈願の写経をしたこれに随喜する720余名の経石を合わせて蔵経数十巻とし昭和39年4月この聖地に宝篋印塔を建立して奉納した」

秋田県出身の多田等観師(1890~1967)は、仏縁に導かれるようにチベットに渡り、仏道修行を経てダライ・ラマ13世よりチベット仏教ゲルク派の最高学位「ゲシェー」を授与されました。帰国後はチベット仏教研究において金字塔を打ちたて、東洋文庫(東京都文京区)内にあるチベット学研究センターの主任研究員として活躍していました。昭和37年8月3日、多田師は同研究員のチベット仏教の僧侶2名(ソナム・ギャッツォ師、ケツン・サンポ師)とツェリン・ドルマ女史を伴って信州を訪れました。来日以来、都外に出たことのなかったチベット人3名にとって、これは初の避暑の旅であったそうです。一行はまず善光寺を参拝し、翌日は戸隠を訪れ戸隠神社を参詣しました。奥社参拝の帰途、その参道近くに奥田正造が建立(昭和9年)した宝篋印塔を訪れました。奥田正造は、信州を中心に各地で茶道を基礎に据えた教育活動を精力的に行っていた教育者です。この塔は奥田氏が、正法興隆を祈って、協賛者と共に一字一石三礼し法華経を書写した経石を奉蔵したもので、多田師はそのことをチベット人の3名に説明しました。一同は奥田氏の願いと行動に深く共感し、自分たちも世界平和祈願のためにチベットの経を国内のどこかに埋経したいと発願しました。これを受けて関係者が動きました。多田師一行が帰京の後、長野市内の中学生たちが千曲川の河原で小石を拾い集め、洗い清めたものをリンゴ箱に詰めて東京の東洋文庫に送りました。当初一行は戸隠の宝篋印塔の傍らに、少量の経石を埋蔵したいと考えていましたが、手元に届いた大量の浄石に感動し、そのすべてにチベット文字を書き入れました。膨大な浄石はトラック便でやりとりされました。目録に記された経典名は次の通りです。

・西蔵般若心経 数十巻
・西蔵文殊師利真実名義経 三巻
・西蔵多羅菩薩二十一礼讃経 二巻
・西蔵多羅菩薩歎徳文 二巻
・西蔵観世音菩薩心陀羅尼 一巻

これら大量のチベット経石の奉蔵場所について、かねてより多田師は善光寺ゆかりの地に納めたいという願いがありました。そこでまずは善光寺境内地が候補となりましたが、善光寺は規則上、境内には永久建造物は設置ができないためにやむなく断念。その後、様々なご縁の巡り合わせがあり、善光寺塔頭の教授院が所有する好適地、現在の長野平を一望できる絶景の高台に定まりました。そして建塔納経の事業遂行のため奉賛会が設立されました。発起人は199であったと記録にあります。また協賛者723名から多額の浄財が集まり協力を得ました。その中には善光寺一山も加わっていました。

そしてついに多田師が戸隠に建立した宝篋印塔と同型の塔が建てられました。塔高2メートル。塔の正面上部には月輪にソナム・ギャッツォ師のチベット文字、また前面に多田等観の「萬善同帰」、裏面には埋蔵したチベット経名が彫り込まれました。塔には善光寺大勧進都築大僧正、大本願智光上人書写の経文をはじめとした関係各位の経石等も埋蔵されました。

昭和39年4月5日、快晴の中で盛大な落慶法要が営まれました。多田師始め前述のチベット人3名の他に、善光寺一山の僧侶方、協力者達が集まり、その数総勢250名を数えたといいます。法要はチベット仏教の法式を中心に盛大に執り行われました。

そして落慶法要以後、毎年春に平和祈願法要が、常任委員会の運営により、有縁の僧侶方を招いて勤修されています。昨今のコロナ禍の間、関係者の健康安全を守るためにやむなく数回中止にはなりましたが、それ以外は一度も途切れることなく、毎年欠かさず法要が続けられています。また塔周辺の草刈りをはじめとする整備作業も有志の手により、毎年2~3回実施されています。

ところで平成22年の6月、善光寺の招きでダライ・ラマ法王14世が来日し長野市を訪れました。その際、この宝篋印塔建立の由緒と祈りの実践を知った法王は、ぜひ塔を参拝したいとこの地へ直々においでになりました。塔の前に降り立ち手を合わせる法王の姿を、私たちは生涯忘れることはないでしょう。
今年の7月末、感染症の不安はまだまだ尽きない中ではありましたが、久しぶりに関係者が集まり、共に汗を流しながら整備作業を行い、小規模ながら平和祈願の法要をお勤めしました。ウクライナでの戦禍、そして未だ苦しみの中にあるチベットの皆さんを思うとき、先人達が発願した祈りの灯火を繋いでいく責任と意義を、改めて深く感じました。

宝篋印塔奉賛会有志

スーパーサンガでも今後期日を選んで、ぜひこの西蔵経宝篋印塔の前で一度、平和祈願法要を勤めたいと計画をしております。予定が定まりましたらまた会報誌等を通じて会員の皆様にもお知らせいたします。

長野県上田市 海禅寺副住職
西蔵経宝篋印塔奉賛会 常任委員
飯島 俊哲

※ 参考資料『建立五十周年記念西蔵経宝篋印塔由来記』