スーパーサンガ会報誌、平成二十七(2015)年夏号より、映画『ダライ・ラマ14世』の光石富士朗監督のコラムをご紹介いたします。
私が本作品に係ったのは二〇〇八年からでした。チベット問題やダライ・ラマ十四世については北京オリンピック騒動で承知している程度で、その意味で私も本作の主人公と同じ立場でした。製作にあたりダライ・ラマ関係の本や記録に目を通している時、ある疑問にぶつかりました。「我々はダライ・ラマの言葉から何を感じ、どう行動しているのだろうか」。
ダライ・ラマの言葉は胸に響きます。同じ言葉でもその文脈から感じるものに説得力があるのです。これは「人間の持つ力、包容力とはどのようなものが源にあるのか」という本編のテーマの一つにもなりました。しかし疑問はそこから先でした。「我々はこの言葉をどう扱って来たのか」。
現代は消費社会です。それは文化、思考、哲学にまで及び、乱暴に言うと消費してそれでおしまいという構図です。もしくは自分の豊かさのためというところで止めてしまうのが大半ではないでしょうか。「考え行動していくこと」、そして「何を行動の中心に置くのか」。
ダライ・ラマの言葉には、その問いかけがあると感じました。私はこの映画が「考え行動するきっかけ」になればという思いで製作しました。私自身考えることが多くありました。取材先のインドではそのインパクトに圧倒され、生きることの意味を直接問われたような衝撃を受けました。カーストの存在と共に、仏教の托鉢のこと、職業を持たないことなどを考えました。またシク教の人々を知り、彼らの職業を持つことの意味や比較的新しい宗教が故の柔軟さも知りました。ダラムサラでチベットの人々に幸福について取材をしていたとき、ある老人がこう言いました。「こっちは占領されているんだ。のんきな顔をして『幸福です』なんて言えるかね?」
「チベット子ども村」でも感じたことですが、個々人がしっかりとした意見を持っている。智恵に対するプライドが高く、自分の考えを述べることに誇りを持っていると感じました。そしてまた別な噂も聞きました。外国人たちが持ち込むマリファナなどがチベットの若者にも入り込んでいるというのです。残念ながら該当者にたどりつくことは出来ませんでしたが、関係者への問いかけで事実であることを知りました。ある高僧がこう言いました。「仏教国といえども決して万能ではありません。だからこそ我々は修行をするのです」。
ギュメ寺の取材のときにも別の高僧がこう言いました。「ここにはこの寺で育ち、この寺で死んでいく者が多くいます。ある議論の中で仏教をもっと表へ出していくべきだという意見があります。私もそのことをずっと考えています」。物事には一筋縄ではいかない問題が多くあります。事実とはジレンマの連続であると感じます。そのとき「説得力のある言葉」について考えました。含蓄のある論というのは数々のジレンマを受け入れ、それでも考え続けた末に出てくるものなのだろう。ダライ・ラマ十四世の受け入れてきた事実の数々がそれを物語っているのだと気がつきました。
ダライ・ラマがよく使われる言葉に「consider」という言葉があります。「熟考する」。そして「何を行動の中心に置くのか」を導き出す。仏教の教えでいえば「慈悲の心」なのでしょう。ダライ・ラマはそれに基づく「生命あるものへの尊厳」と「対話に基づく平和の実現」を訴えています。これは今日だからこそ、求められている行動だと強く感じます。
私も一人の人間としてジレンマを受け入れ、考えることを諦めず行動することを、この作品を通し学びました。
〔二〇一五年五月〕
参照:映画『ダライ・ラマ14世』公式サイト