ダライ・ラマ法王猊下のご尊兄、ギャロ・トゥンドゥプ氏(97歳)が2025年2月8日、インド・カリンポンで亡くなった。本号では当会副代表の小林秀英師に『チベット国旗秘話』『ギャロ・トゥンドゥプ氏とCIA』として、二節に分けて氏にまつわる逸話をご紹介いただく。

チベット国旗秘話

ギャロ・トゥンドゥプ氏

ギャロ・トゥンドゥプ氏がチベット亡命政府の首席大臣をしておられた頃、来日された折に二度ほどお会いしたことがある。初回は、来日歓迎会のパーティーの席であった。それまで私には、どうしても確認したい疑問があった。

西本願寺法主大谷光瑞の命で、一九一二年に多田等観と共に入蔵した青木文教の自伝『西蔵遊記』に、『雪山獅子』と通称されるチベット国旗成立の過程が、次のように記されている。

「ポタラ宮殿の中のチベット軍司令官の執務室で、司令官と二人で新しい軍旗の図案を考えていた。そこにダライ・ラマ十三世が入って来られて、まだ図案段階であった軍旗の下書きを、『これは良い』と仰って、持って行ってしまわれた。それが軍旗に制定されたのだ」と。

『西蔵遊記』にこれ程はっきりと書かれているにも拘わらず、チベット人誰に聞いても、チベット国旗成立に青木文教が関わったことを認めてくれる人はいなかった。

ギャロ・トゥンドゥプ氏来日歓迎パーティーの席で、「チベット人は誰も認めてくれないのだが、チベット国旗は日本人が作ったのだ。チベット人が認めてくれなくても、日本人としてそのことに誇りを持っている」と主張した。

すると氏は、即座に私の言ったことを認められて、「その話は私も聞いたことがある。日本人僧侶のアオキがこの国旗を作った、と私も聞いている。それまでのチベット国旗は四角ではなかった。三角形であった」と仰ったことで、私の疑念は吹き飛んだ。

チベット旗(雪山獅子旗)

青木文教がインド亡命中のダライ・ラマ十三世にお会いしたのは、ベナレスであった。十三世は日本からはるばるやって来た青木文教に十三世の侍者を紹介し、ベナレス滞在中は侍者の部屋に居住することを許した。侍者は僧侶でありながら、大変に気の利く人物で十三世が清軍に追われてラサを脱出する際に、ラサ近郊の川岸で清軍の追撃を弱小なチベット軍を指揮して食い止めた人物だと、青木文教は書いている。
チベット亡命政府の首席大臣が認めて下さったことで、安心した私は直ぐに月刊文芸春秋に『チベット国旗秘話』という記事を書き、世に公表した。後に私の師、宮坂宥勝先生に「何度も『西蔵遊記』を読んでいるのに、気が付かなかったよ。良く気が付いたな」とお褒めの言葉を頂いた。

青木文教と一緒にチベット国旗成立に関わったチベット軍司令官とは誰なのだろうか、何故、青木文教は個人名を挙げずに、チベット軍司令官と記しているのだろうか? これが私の次の疑問であった。その疑問が解けたのは、春秋社が『十四人のダライ・ラマ』という本を出版した時であった。私はその本の書評を頼まれて、上下二冊の大冊を読み通した。ダライ・ラマ十三世の項目を読んでいると、青木文教が『西蔵遊記』に書き残しているのと全く同じ逸話が書かれていた。

『十四人のダライ・ラマ』にも同じ逸話が紹介されていて、その侍者の名前が記されていた。その名前はツァロンだという。後に青木文教がラサにたどり着き、ラサの街を歩いていると従卒を従えたチベット軍の司令官に声を掛けられた。顔をよく見ると、ベナレスで同室した十三世の侍者であった。十三世がラサに帰還すると、ツァロンは十三世の命で還俗し、チベット軍の司令官に就任していた。請われて青木文教はツァロンの邸宅に住み、ツァロンと一緒にポタラ宮殿に通うようになった。ツァロンは軍司令官であるだけでなく、チベットの有力な政治家になっていた。チベットの政界の中では最も親日的な政治家であったといえる。

青木文教

しかしチベットの近代史において一番大きな影響力を行使していたのは、英国であった。日本と同盟関係にあった英国ではあったが、チベットに関しては悉く日本とチベットの交流を妨害した。そのために青木文教も多田等観も、ダライ・ラマ十三世からチベット入国の許可を貰っていたにも拘わらず、インドとチベットの国境を超えるまでは、英国の官憲に付け回され帰国する振りをして、カルカッタ近郊で雲隠れをしてようやくチベット国境を越えている。
青木文教が日本に帰還した後で、ツァロンは失脚した。ツァロン失脚の理由は、チベット近代化のためにチベットも紙幣を発行しようということになった。印刷機は英国から購入することが決まった。担当大臣はツァロンであった。ツァロンは二台の印刷機を買って、一台を政府に納め、もう一台を彼の屋敷に置いていた。後にツァロンが自宅で紙幣を刷っていると疑われて、彼は失脚した。

私はこの事実を知って、親日家のツァロンは英国によって罠に掛けられたのではないかと疑っている。近代史において世界中を騙し回って来た英国は、紙幣印刷機を買うチベット政府の担当者に、印刷機が故障した時のために、もう一台予備機を準備しておいた方が良いですよ、と持ち掛けたのではないか。初心な親日家のツァロンは簡単に騙されてしまったのではないか。ツァロンが正直者の日本人と深く接して来たことが災いの種になったと言えるのかも知れない。

多田等観

私がかくまで英国を疑うには理由がある。第一次世界大戦にインドが参戦したことをご存じだろうか? 第一次世界大戦の戦禍に苦しんだ英国は、インドが兵士を送ってくれたら、戦争に勝った暁にはインドの独立を認めると約束をした。それを信じたインドは十万人の兵士を欧州戦線に送った。そして戦死、負傷含めて三万人のインド兵が犠牲となった。戦争に勝ってしまうと、英国は約束を反故にし、インド兵に渡した銃を全て取り上げた。廃銃の処理に困った英国は、廃銃をチベットに上げると言って来た。この時、青木文教はもう既に日本に帰っていたので、セラ寺に籠って修行していた多田等観にダライ・ラマ十三世が意見を求めた。多田等観は、只で物を貰うのは良くないから、銃一丁につき銃弾何百かを付けて買い取るように返事をした。チベット政府は、その助言に従い英国の廃銃を買い取った。

このことは多田等観の自伝を読んで知ったことで、インドが第一次世界大戦に参戦したことも、インドが英国に裏切られたことも私は知らなかった。もし目端の利くツァロンが、中共軍侵攻時にチベット政府の有力な政治家であったならば、中共軍の侵攻を跳ね返していたかも知れない。世界中で嘘をつき回って人々を苦しめた、英国という疫病神が、チベットも不幸に陥れたと言えるのではないだろうか。こういった歴史的事実を見落としている、日本の歴史教育はおめでたい限りである。