令和3年3月13日、東京浅草にて在日チベット人コミュニティ(TCJ)主催のピースマーチが開催された。このイベントは私たちスーパーサンガの他、SFTJ(Students for a Free Tibet Japan)が共催した。

当会からは、当日に小林秀英副代表が参加しスピーチを行った。以下は、小林副代表より寄せられたレポートである。

 

チベット蜂起記念日のピースマーチ

東京・浅草で行われたチベット蜂起記念日ピースマーチの様子

 

参加した小林秀英副代表によるレポート

3月13日(土)13:30、3月10日のチベット蜂起62周年を記念して、浅草でチベット支援のデモが実施された。主催はTCJ(在日チベット人コミュニティー)、共催団体としてスーパー・サンガとSFT(Students for a Free Tibet)が参加した。主催者のTCJを代表して小原カルデン氏、ダライ・ラマ法王事務所代表のアリヤ氏、スーパー・サンガを代表して私、小林秀英が、もう一つの共催団体SFTを代表してツェリン・ドルジェ氏がスピーチを行った。

私のスピーチの要旨は「チベット支援は大東亜戦争の継続戦だ」というもので、私がそう考える理由を説明した。1919年第一次世界大戦の講和会議がパリで開かれ、国際連盟を作ることとなった。日本は国際連盟の憲章に「人種の平等」を盛り込もうと提案した。参加国16カ国の中、11カ国が日本に賛成したが、議長国アメリカのウィルソン大統領が、多数決では決められないと言い出して、日本の提案を葬ってしまった。ウィルソン大統領も民主党の大統領であり、米国民主党は100年も前から民主主義の大原則である多数決の結果を盗むという癖があったようだ。

日本の主張が大多数の支持を受けたにもかかわらずそれを覆されたことで、日本は大東亜戦争を戦わざるを得なくなった。1940年大東亜戦争の1年前、日本軍はベトナムに進出した。フランスは既に力を失っており、日本軍の駐留を受け入れた。ベトナムに進駐した日本軍が最初にやったことは、奴隷市場を閉鎖することであった。それまでフランスは、ベトナム人を奴隷として売ってお金を稼いできた。それを止めさせたのが日本軍であった。次に日本軍が行ったのは、ベトナムに飛行場を作ることであった。翌年、大東亜戦争が始まると、ベトナムの飛行場を飛び立った海軍の一式陸攻が、南シナ海に出てきた英国の戦艦二隻を撃沈してしまった。英国のチャーチル首相はショックを受けて、大泣きに泣いたと伝えられている。

時間がないのでチベットのことにも触れておきたい。1911年辛亥革命が起きて清国は崩壊し、ダライ・ラマ13世はすぐに独立宣言を発した。その時に作られたのが、ここにある雪山獅子の旗である。この旗を作ったのは、日本人の僧侶・青木文教とチベット軍の司令官ツァロンであった。そこにも日本が関わっていたのだ。

私たちの父親たちは、アジアの人々を助けて来たのです。私たちもそれを受け継いで、アジアの人々を助けなければなりません。だからこそチベット支援デモに参集することは、大東亜戦争の継続戦だと考えているのです。